2014年5月20日火曜日

愛するのと愛されるのではどちらが幸せ?」

これはもうはっきりしています。
愛は取引ではない。愛するとは、相手が自分をどう思っているかに関係なく応援したい気持ちなのです。


主体性のない生き方が幸福であるはずがありません。
しかも愛するとは、励ますことです。とても能動的なことです。


その意味で愛するのと、愛されるのでは、どちらの方に献身できるエネルギーが湧くか想像してみてください。


<愛する>とは、選ぶこと。<愛される>とは選ばれることですが、選んでくれた相手の条件がいい場合には、愛される幸福を感じて、条件が悪い人だったらと迷惑と感じるなら愛ではなく取引です。
それが悪いということでなく、それが現実ですから、愛する方が幸福なのです。

<愛する>とは、相手が自分をどう思っているかに関係なく応援したい気持ちなのです。
だから振られたからといって、相手への気持ちが変わらないのが愛の姿です。


好きになった人自身が、いつしか心変わりして許せないことをしていることを除けば、愛した人への気持ちは永遠に変わらないのです。


うまくいかずに終わって、いつまでも忘れられないのは未練でもなんでもなく自然なことです。

だからといって新しい恋が始められないこととは別のことです。


すてきな人はたくさんいるので、全力で応援したい人が現れるのは普通だからです。
裏返せば恋した人全部とつきあわないことを意味しています。
好きな人がたくさんいても心を捧げるのはひとりだけということです。


愛の基準が曖昧だと、なにが幸福なのかも分からなくなります。
恋愛の刺激は永くは続きませんが、主体的にひたむきに生きることへの応援は変わらず続くものです。


それはひたむきに生きることが、その人のスタイルですから挫折があってもなかなか変わらないです。

また、迷いながらも自分の未解決の問題を克服しようとしている人を愛した場合は、試練が待っているでしょう。


試練に打ち勝つ気持ちも半端ではできませんが、プロセスとともに自分を育てられるのは楽しい作業です。(ほとんどの人は互いにこの点に気がつかずに恋愛から結婚に進み張りのない暮らしに陥っているのは残念です。)

一般に浸透している愛の幸福は、ステレオタイプのコマーシャルベースなものが多く、自分の現実に持ち込むことは決して良いことではありません。人の心は複雑だからうまくマッチしないからです。


コマーシャルベースに流されると、無理して<ありもしない方程式>にあてはめようとするので、自分の感覚が鈍くなり、主体性を失い消費で刺激を与えないとつまらない暮らしに陥る虚しさが待っています。

愛する基準をはっきりすることが、愛する幸福の最初の一歩です。






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